『かんたん短歌の作り方』枡野 浩一_0012
大人なんだから問題の終焉。ーとりあわない。が正解。ー
今回は、あまり気持ちの良い文章ではない。
終始馬鹿にしている。
ただ、アホな「大人なんだから」問題の解決には役立つと良いなと。
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ぼくの中で、何年かに一度この『大人なんだから問題』が起こる。
『大人なんだから問題』とは、つまり「大人なんだからってなんやねん?」と、考えさせられてしまって、そればかり考えてしまう問題のこと。
その問題が起こる度に「いや、自分は子供でいい」とか、「大人を語るお前を、私は大人だとは思えない」などと反発をしてきたが、ここに来てまた別解を得た。
今日はそのことについて書こうと思う。
結論としては「取り合わない」が、正解かなと。
■考えるきっかけ
この歳になってまだ言われるのか?と思うが、今回も単純に「大人なんだから」とご指導頂いたというのが、考えるきっかけとなった。
詳細の記載は避けるが、ざっくりいうと、会議の席でのぼくの仕事の報告に対して、前任者からの無責任な発言(ぼくの主観)を受け、我慢できず怒ってしまったことが発端である。
そして、ぼくの発言を受けた前任者から「せっかく、ありがたいアドバイスをしてやったのに、それに対して怒るなんてお前の聞く態度が悪い」。「仮に、相手が無責任な発言をしてきても、それは『大人なんだから』怒るなよ」という、ありがたいご指導をいただいたという、流れである。
最終的には、ぼくが一方的に謝罪をして終わったのだが、釈然としないので、ここで整理をしたいと考えている。
■「大人なんだから」をつくるもの
今回の件とこれまでの「大人なんだから」を思い返すと、いくつかの要素を伴って生成されていることがわかる。
それらを分解していくと「大人なんだから」と言われて湧き出る感情も、その生成元が快いものじゃないから出てきてるんだとわかる。
□要素1. 完全な上から目線
「大人なんだから」は、自分のことを『おとなである』とした状態かつ、相手を『おとなではない』とした場合においてのみ言える言葉である。
そもそも、18歳を超えたらおとなであるとも言えるので、逆に相手を『おとな』としては認めませんよ。という宣言として受けとることもできる。
「大人とは?」みたいな話を抜きにしても、その発言は相手のことを見下していない限り出ない。
そして、残念なことに他人を見下すための根拠自体が、自分は「大人だから」という意味もない言葉なので、純粋に「見下しています」という情報しか残らない。
だから、腹がたつのだろう。
他人に見下されるのを好む人は居ない。
□要素2. 本人が抑圧されている
だいたい『大人なんだから』という発言の前後には、「俺だって・・・。」「私だって・・・。」という言葉がついてくる。
そこから冷静に聞いているとわかると思うが、結局言っていることは『 私も我慢しているから、あなたも我慢しなさい』ということでしかないことが多い。
本当はそれだけが言いたいことなのだろう。
それは、大人がどうのこうのは全く関係がないが、本人は気がついていない。
言い換えると、そもそも抑圧されている本人の鬱憤が、自分より立場の下(見下している)人に対して露呈しただけとぼくは考えている。
それは、本当に憐れで、見ている方が惨めになるほどかわいそうではあるが、その矛先が自分に向かうとなると話は別。
そんなものをぶつけられて、喜ぶ人間は居るだろうか。
それらを受け止められるほど、ぼくはできた人間ではない。
□要素3. 無思考
今の社会で「大人なんだから」といった、何かしらの型にはめて相手に押し付けるような高圧的な態度を取るのは、危険だ。
それは、ハラスメントの観点からも、または、その指摘が曖昧すぎるがゆえに、そのまま自分に返ってくることも踏まえても。
考えれば考えるほど、単に「大人なんだから」という発言は危険で、ぼくは絶対に言いたくない。
当人は、単純に知ったセリフを吐いただけというのは見てわかるが、そのセリフを吐いたからには、責任がある。
それこそちゃんと「大人の対応」を求められたのであれば、ちゃんと法律や規則に則って対処するという話になるとおもうのだが、そうなると弱い立場にいる相手の方が強い。
大人の対応をされて困るのは「大人なんだから」と暴論を振りまいている自分の方だと考えたことは無いのだろう。
いずれにせよ、「大人なんだから」なんて発言した瞬間から負け戦で、大ごとにしないように周りに気を使われているのは、哀れでしかない。
高圧的かつ哀れな人を気づかう時ほど、面倒なことは無く、そんなことをさせられて喜ぶ人は居るだろうか。
□要素4. 無責任
基本的に「大人なんだから」とともにうながされる行動を実際にやってみたところで、メリットがあるとは考え難い。むしろ、デメリットである事が多い。
なぜなら、「大人なんだから」と言っている本人も、「大人なんだから、しょうがなく」「大人ってこういうものだから」といった、我慢と無思考からやっている事だからだ。仮に、メリットがあるならそんな言い方はしない。
端的に言うと、「適当なことを言っている」だけなので、そもそも『発言に責任を持つ』という発想がない。
他人にデメリットを押しつけて「こういうもんだから。」と言う無責任な人が『大人』を語っているのだから、大人という言葉の価値を暴落させているのは、こういう人達なのだろう。
聞くのはいいが無責任。対応に困る。
■「取り合わない」
「大人なんだから」がうまれる要素を4つあげたが、分解したものを合わせると、「上から目線で、他から抑圧された鬱憤をぶつけるための、無思考かつ無責任な発言」ということになる。
「大人だから」という発言は、いかにとんでもない発言だったということがお分かりいただけただろうか?(まぁ、分解して貶して、組み立てたら大体のことは同じ結論に行き着くが。)
コレに対する個人の対応としては、「取り合わない」が正解である。
「上から目線で、他から抑圧された鬱憤をぶつけるための、無思考かつ無責任な発言」をする人は、つまり『錯乱している』のだから。
その証明に、30歳にもなる相手に「大人なんだから」などと言っている。あわわわわ。
取り合ってはいけない。関わってはいけない。
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この文章を書きながら、ドグラマグラを読み直している気分になった。
■ドグラ・マグラ (上) (角川文庫) 角川書店 https://www.amazon.co.jp/dp/4041366038/ref=cm_sw_r_sms_awdb_c_-EYCCbY6SC7HT
今日も精神病と疑われております。
まぁ結局はぼくの日頃の行いがわるいということか…。
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『あなたはこれじゃないでしょうか?(URL:〇〇〇〇)』
ということで、精神病の症状が記載されたサイトのURLを送られてきたことがある。
離婚の理由として例にもあげたが、基本的にそんなことをする人は稀だと考えていた。
しかし、先日、隣の席に座る人(40代女性)から
「もしかしたらメンタル? 心気症(病気不安症)
(URL:http://www.kokorotokarada.net/disease-jiritusinkei.html#shinkishou )」
というメッセージを業務中に頂いた。
前提として状況を説明すると、ぼくのここ2~3ヶ月の間の症状として、食後に腹痛でデスクでうずくまっていることがたびたびある。
それについては、すでに医者にかかっていて「内臓的には問題なし、食事への反応として胃が収縮する癖がついてしまい、胃の収縮に付随して周囲の筋肉が引っ張られることによって、胃痛が発生している」という診断を受けていた。
そして、周りにあまり心配をかけてはいけないということで、その女性にはしっかりと上記の説明をしていた。
にもかかわらず、つい先日このようなメッセージを頂いたということである。
正直、ぼくがまともであるとは言い切れないし、もしかしたらご指摘通り、心気症かもしれないが、気持ちとしては「なんだこのやろう」である。
いつもなら、それで終わりだが、ただ、あれから少し考えさせられてしまった。
■精神病についての考え方が違いすぎる
今回の件もそうだが、これらの話では、他人を精神病だと決めつけたのち、その判断の根源となる情報を探しに行くというアプローチがなされているように思える。
そもそも、彼女が心気症という言葉を知っているとは思えないし、胃痛という症状から心気症に行き着くのは無理がある。
どこか勝手にメンタルの話にこじつけて、そこから、情報収集を初め「心気症」という症状にたどり着いたというのが流れではないだろうか。
迷惑にもほどがあるが、ここで思うことが2点。
□精神病ってそんなに適当に扱っていい問題なのか?
ネット上にたくさんの情報が上がっているが実際の病気などは、実証が難しいので医師の診断を元に対処したほうが良い。
そんなことは誰もが理解していることだろう。
ただ、メンタルの話になると、病気かどうかの基準がネット上でもある程度の実例を基に(実際には細かい診断等あるが)表現されることが多い。
今回は、それを持ち出して「これみたいに、〇〇って言ってたじゃないですか」などと言われたが、このように医者でもない人間が自分なりの証拠をぶつけて、適当に実証(納得)してしまうことができる。
結果、他人を精神病呼ばわりしてしまう。
どうも精神病に関する問題を安易に扱い過ぎじゃないかと、ぼくは思うのだが、どうなのだろう?
仮に、ぼくが本当に精神病だったとして、そんな大変な状態の相手に対して、適当な診断をぶつけるなんてどうかしているとは思わないのか。
まあ、思わないからそうしてるんだろうが。
本当にこの病気と闘っている人がいる中、あまりに気軽に扱いすぎでは?
□URL共有ができる環境もよくないのでは?
ただ、少し擁護するのであれば、情報に簡単にアクセスできる、理解せず容易に伝えることができる環境がある。それが、問題とも考えられる。
まだネットが発達していない時代であれば、知識のないことに関して相手に伝えるときの選択肢は「わからないと正直に言う」か、「知ったかぶりで済ませる」か。熱意があるのであれば、「本を読んで内容をまとめて伝える」か「専門家に聞いた話をまとめて伝える」くらいしか、行動の選択肢がなかったのではないかと思う。
ただ、今ではそれに加えて「知らないことを調べて、碌に理解もせず、そのサイトのURLを送りつける」という選択肢が増えた。
「碌に理解もせずURLを送りつける」行為は、内容を理解していない状態で伝える、という点では「しったかぶり」と同じ対応ではあるが、ネットに情報が上がっているという点を持ち出して、自信満々でいられる。
知ったかぶりのように、不安になることがないので、ちゃんと考えるきっかけがない。
また、「本を読んだ人」「専門家に聞いた人」と比べた時に共通してある違いとしては、「自分で考えてまとめたか」どうかの違いがあるが、それも「ネットに書いてるし」と、内容を改めて自分の中でまとめる必要はないし、理解する必要も無いので考えるきっかけがない。
根本的に「考える」機会が無いので、精神病についても深く考えずに、気軽にあつかってしまったのではないかということで、ある程度は環境も悪いかなと(むりやり)。
もちろん、同じ環境に置かれていても、そうはならない人のほうが多そうなので、擁護は仕切れないが。
■ぼくがそんなことも言えてしまう相手であるということ
とはいえ、最終的な問題としては、ぼく自身がそういうことを言われやすいということに問題があるように思える。
仮に、ぼくがゴッドファーザーのヴィトー・コルレオーネみたいな人だったら、そんなことは言われないだろう。
しかし、残念なことにぼくは劇中のチャップリンみたいなキャラクターで日頃生活している。
そりゃ言われてもしょうがない。
これから、自分を変えるとしても、コルレオーネみたいにはなれる気がしないから、見た目はチャップリンでも、より上手な切り返しができるようになったほうが良いなと。
今回は「人を精神病扱いしやがってこの野郎」とやってしまったので、反省が必要だ。
まぁ、相手とは仲良くなろうとは思わないが「あははは~ありがとね~。確かに精神病かもしれないね~。」くらい返せるようになろう。
まぁ、相手とは仲良くなろうとは思わないが。
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ぼくは、知識もなしに他人を精神病呼ばわりして平気な人の方が、精神病と闘っている人より怖いよ。
『料理のお手本』辻嘉一_0011
この本は、1979年12月10日に初版が発売されてた、少し古い本ではある。
そのおかげか内容によっては、例えば冒頭に『旬のものがなぜうまいか、これは言うまでもないことでしょうが、たとえば女盛りと同じことなのです』といった一文が出てきたりするなど、今出版されたとすればひと炎上ありそうな文章が散見される。
しかしながら、もちろん食材を巡る環境や、調理器具の発達などによって多少の違いがあれど、料理に対しての所見やアドバイスは、今もなお活用ができるもののように思えた。
僕自身はこの本のおかげで、日々の食事に対する考え方や姿勢が大きく変わった。
食事は栄養摂取としての側面だけではなく、滋味深い料理を味わえば自分の味覚を鍛えられるし、器と料理の演出を考えることで美的なセンスも鍛えられる。さらに、旬なものを味わうことで、季節を知り文化についても学ぶことができるということを知ったから。
お腹いっぱいなれば良いと考えていた満腹即美味時代はおわり、また、栄養摂取ができれば良いと考えていた効率主義時代もおわり。
より、自分の感覚や知識を養うような食事をとっていく。
僕は今そういう転換期にしていく。
■MEMO
P11_2『旬のものがなぜうまいか、これは言うまでもないことでしょうが、たとえば女盛りと同じことなのです』
P11_3『旬であれば、味は頂点で、物は店頭に出盛り、値も安く、と、三拍子揃います。』
P13_5『さてせっかく手に入れた良い素材は、なるべく「手を加えずに」食べることを最上と考えてください。』
P14_4『料理は外面よりは、その奥にある「味」が良くなければならず、言い換えれば、心の美しい白粉気の少ない麗人でなければなりません』
P16_3『なるべく手を加えずに、物、その物の持ち味を、いかに活かすかということが、日本料理の真髄なのです。それというのも、日本ほど世界に誇りうる料理素材に恵まれている国は無いからです。四季折々の野菜・果物類、また海や川、湖の魚介類等々、大変な修理位であります。それらの産物は、品種のゆたかなばかりではなく、持ち味もまた優れています。』
P28_3『吸物や味噌汁などの沸騰点に達したときには、ぐうっと量がふえて来るでしょう。この今まさに沸騰しようとする瞬間を「煮えばな」と言います。』
P31_2『この満腹即美味時代は、調味過剰な味だけを美味と思い込んで事足れりとするのですから、まだまだ心のものの味を探ることは望めません。生理的に肉体の要求する味というものは、青年期と中年期とでは、おのずから異なるのです。』
P66_2『温かくした石を懐に抱くという程度の軽い食事、という意味が懐石の字義』
P74_3『江戸の朝は納豆売の声にあけるとありますが、』
P99_3『日本ほど食器の豊富で、種類の多い国は、世界中、あまり例がないのではないでしょうか。まさに複雑多岐といえます。その複雑であるところに、高度の文化性があるのです。』
P110_5『料理のあり方は、御客様本位に考えないで、日常三度の食事をいかに楽しく、愉快に、美味しく食べようかというところが根本なのですから、家庭食事の食器は、どのようであってもよいと思わないで、少しでも家庭生活を豊かに調理と食器についての考えを新たにしたいものです。』
P233_4『それに、営業として専門家が作る料理と、家庭の料理とは、全く別種のもので目的が違います。主婦は、一家の健康な血液を養う滋味深い料理を、愛情を込めて作ることが日々の最も大切な役目でありましょう。』
■本のリンク
離婚しました。
2018年12月20日。
ぼくは、離婚届を提出した。
結婚していた期間は7年と4ヶ月。
それが長いのか、短いのかはわからない。
新卒の時期から2人で東京に出てきて、社会がどんなものかも想像のつかないまま右往左往し、互いに多くの経験をしてきた。
もちろん、楽しい時期もあったし、僕自身としては大いに助けられた7年だったと思う。
それでも、離婚をした。
はじめからぼくらはどこまでも「合わなかった」のだけれど、それでも良かった。
どこかで互いに「合わせる」ようにしてやってこれていたので。
ただもう、ぼくが「合わせられる」のも「合わせる」のも嫌になって、彼女との間では何もできなくなってしまった。
うまくは表現できているかわからないが、そういうことでぼくらは離婚をした。
■「合わせる」は終わり
ぼくは「人として」おかしな部分があるというのは、この年になってやっと自覚するようになった。
困ったことに、親しい友人からも「頭がおかしい」といわれるのだから、そうなんだろう。
そんなおかしな人間に、彼女は何年も合わせてくれていたのだから、本当にありがたいことだと思う。
ただ、時には彼女の理解を超えてしまうことがあって、
「あなたは精神病なので、病院に行ってください。」「あなたはアスペルガーです。」
などと言ってもらうことがこれまで何度かあった。
そんな彼女に合わせて、実際に精神病院まで行ったことがある。
もちろん、心配から言ってもらっていることもあると思うが、その頭がおかしいぼくでも医者でもない身内から「あなたは病気です」と唐突に突きつけられて傷つかないわけではない。
それに、その時彼女がぼくを精神病患者にしたがったのは、ぼくにこれ以上「合わせることができない」というSOSだったのだろうと今になって思う。
そんなことが、積み重なってぼくは、彼女に合わせなければならない状況や、ぼくに彼女が合わせようとすることを避けた。
結果、関わること自体避けるようになった。
家に帰ろうと、互いに一言も喋らない。
おかけで、ぼくの誕生日も祝われることもないし、彼女が何をしているのかも知らない。
このまま行って、どこかで再び交わるイメージが持てなかった。
■「家族」は終わり
そもそも結婚しようと考えたのは、家族が欲しかったからだ。
当時のぼくの持病の「猛烈な寂しがり」が原因で『彼女』より安心な『家族』を欲しがった。
ただ、この年齢になってやっと、寂しいという気持ちを自分の中で折り合いをつけられるようになってきた。
また、家族というものに対しての幻想も抱かなくなった。
結婚当初から彼女は「家族と言っても、他人」と事あるごとに言っていた。
それはその通りなのだけれど、本当の他人であれば家族ではない。
だから、家族はなにかを共有しているはずだった。
合わない2人にとって「共有している部分」というのが「合わせた部分」だった。
そして、それがなくなるということは、ぼくの中では家族をやめるということだった。
家族をやめたなら、あとは『他人』をやるだけだ。
■これから
彼女はどう思っているかはわからないが、ぼくとしてはそれまでの結婚生活を通して学ぶことが多かったので、とても感謝している。
自分がどういう人間なのか。
人付き合いとはどういうものなのか。
家族というものはどういうものなのか。
沢山学んだ。
ぼくは、強い人間ではない。
ぼくは、人付き合いが上手ではない。
ぼくはにとって『家族』は、単なる記号。
今はもっと単純に、好きな人と、好きなときに一緒にいられたらなと思う。
とにかく、もう少し自由にやっていこう。
死についての解釈。自殺するやつは馬鹿なんて言うのは、馬鹿。
何か書こうと考えた時に、まずは死についての考えを書いておこうと思った。
その結果僕というものがわかってくるのではないか、という願望も込めて、僕が今まで読んできた本などからの考えをもって、死について書いていく。
■死は自分のものではない
これは、吉本隆明さんの本に出てきたたとえだったと思うが…(間違っていたらごめんなさい)。
たとえば今、僕が脳死やなんかで自分の意思を示せない状態になったとして、それに対して自分の家族やらが「もう、死んだってことでいいですよ」と延命処置をやめたとしたら、その時点で、僕は死ぬ。
自分の意思に関係なく、周りの人の意思で僕は死ぬ。つまり、僕の死は、僕自身の問題ではなくなる時があるということだ。
また、たとえば僕が単純に死んでしまったとして、その死を考える脳や肉体がないのだから、その死を認識することができない。その点についても僕の死は、僕自身の問題ではないと言えるのではなかろうか。
とはいえ、果たして、自分の死に対して、そこまで割り切れるものか。死を感じた際の、恐怖らしきものや先取りした未練はどうしたものかと、ぼくは悩ましくおもう。
たとえば、その恐怖から逃れる手段のひとつに、宗教があったりするんだろうか。
無宗教の日本人は?という点は、そもそも、「私が」というものが希薄だから、死に対する恐怖が薄いのではないだろうか。
>>『反哲学入門』木田元
もろもろ思うことがある。
僕は「死」をどう考えるか。
■「自分の死」は、ゲームオーバーより強烈
テレビゲームにあるゲームオーバーは、一種の死ではあるが、現実の「死」はもっとシビアで、理不尽だ。
人生では、ゲームオーバーによりゲームが終わるのではなく、もっとどうしようもない、いきなりゲーム機本体の電源を抜かれた様な、強烈な、終わりがあるだけじゃないだろうか。
仮にゲームとして例えるならば、この人生は、
・リトライ不可。
・前触れなしに終わる。
・ゲームオーバー後の情報なし。
という様な塩梅で、そんな鬼畜ゲーム誰が買うんだ?と思うような仕様になっている。
でも現状、人生がこういった仕様であることは間違いなく、僕らはそんな鬼畜設定のもと生きている。
それをどれだけの人が認識して生きているのだろうか。
>>『人生ドラクエ化マニュアル』JUNZO
ただ、そんな絶望的な設定のおかげで、「いまを生きる」という事の価値が際立つ。
泣いて喚こうが、どこからともなく絶望的な終わりが来るのであれば、将来を不安に思うことも、死に怯えたりすることも無駄である。
より、生きることに全てを使って良いとぼくは考える。
■あるのは、自分以外の死
自分の死というものは、死以上に強烈で、その強烈さゆえ、考える必要すら無いが、それでもちゃんと「死」は身近に合ったりする。
自分の周りの人やペット、好きな俳優やアーティストの死。会ったこともない歴史上の人物の「死」。つまり、自分以外の「死」である。
つまるところの「死」についての問題は、この点にあるんじゃないだろうか。自分以外の「死」に、いかに反応するかが、問題ということ。
例えば、大切な人の死と、全くの他人の死は感じるものが全く違い、自分のその後の人生に与える影響も違う。
その違いがなぜ、出てくるのかというと、ぼくは「相手が大切であればあるほど、その相手用の自分が個別に出来上がる」からだと考えている。逆に、全くの他人の死に心が動くことが無いのは「他人用の自分」という、変動の無い自分が相対しているからだと考えている。
つまり、大切な人が死ぬと「大切な人に向けた部分の自分を失う」から、悲しいのではないか。もしくは、「大切な人に向けた部分の自分が風化していく」のがわかってしまうから、寂しいのではないか。ということ。
他人の死は、それによって自分の何を失ったのかを考える時間が、自分を救ったり、死を弔うことだとぼくは考えている。
>>『私とは何か 「個人」から「分人」へ』平野啓一郎
ただ、大切な人の死は、自分の死についで強烈だ。その強烈さは、この言葉に集約されているように思う。
「兄弟とは不思議なものだな。親子ほど密でなく、男と女ほど絡み合いもしないが、弟がもしも腕を切られたとしたら、俺の腕をもがれたように痛む。(吉岡清十郎)」
ぼくはこの感覚が凄くわかる。
「もがれたように痛む」とは、自分の一部として、相手があるからではないだろうか。
そして、これが「死」となると、相手を大切に思っている自分が「死」を感じる。
ぼくはじいちゃんが死んだとき、突然目の前が真っ暗になるような、感覚に陥った事が事がある。それこそが、ぼくが感じる事ができた「死」であって、擬似的な死、「ゲームオーバー」だった。
人は、死を待てない。
他人の死は、僕のために待ったりしない。だから、相手が大切であればあるほど、いつゲームオーバーが来ても良い様に、相手に対して自分がやっておきたい事する必要があると僕は考えている。
それが、エゴかどうかは、別の話で。
■死を想え
いろいろと言ったが、自分自身に関係があるか?それを認識できるか?にかかわらず、この人生にもいつか終わりが来ることは、ほとんど間違えが無いことだろうともう。
それを、理解した上で日常を送るのか、そうでないのかによって、人生の深みというようなものが変わるのでないかと思う。
そうやって、人生に重みが出てくると、反対にこの人生の理不尽なゲーム設定に対しての反感は増していく。
とはいえ、一度しか無い(だろう)人生を打開する手段は殆ど無く、僕が思いつく手段としては「本を読む」ことくらいだ。
「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います。」
この言葉自体も、小説の中の人物の発言ではあるが、これ以上に自分が本を読む理由を的確に表現している言葉は見当たらない。
>>『空飛ぶ馬』北村薫
死を想い、その理不尽さに対して抗議に赴かないのであれば、まだ生きているとは言いがたいのではないかとすら思う。
ただ、それは僕が本を好きなので、それをきっかけに本を読むようになって欲しいという願望も入っているが。
■自殺は馬鹿だとは言い切らない
ここまで自分の「死」について考えていくと、「自殺」というものについても考えることが出てくる。
ただ、自殺について”考える”前に、人が自殺してしまうような状況というのは、考える余裕が無いほど混乱してる、もしくは、一つの方向に考えが集中してしまっている状況であることが多く、単純に「自殺する人は馬鹿だ」などと言い切れる様な事ではないという事は、言っておきたい。
その上で、自分がそういった状況に陥らないように、自分の状況を客観的に判断できるようにしておいたほうが良いと僕は考える。
そのためのセルフチェックの基準というのが、
1.疎外感を感じていないか?
2.他人に負担をかけてしまっていることを気に病んでいないか?
3.リストカットやアルコール依存などの、自傷経験が進行していないか?
というもの。
誰もが、一度は「死にたい」と考えるとがあるだろうが、多くの人が自殺していないのは実行に移すまでのハードルが高かったからであって、上記の内容がそろうと、自殺のハードルが下がり、正常な判断ができずに、自殺に踏み込んでしまうこともありえる。
>>『健康の結論』堀江貴文
ただ、端的に自殺についての僕の考えを述べると、自殺は手段としては最悪。ダメだ。
死んだ後どうなるか?を誰も知らないのだから、自殺をして本当に状況が改善されるとは限らない。なのに、今持っている肉体を含めた全ての資産を投下してしまうのはリスキーすぎるという点。
人類が未だ、生命と呼べるものを作った事がないということから、命に関わる決定権を人間は持っていないと考えている点。
その2点においてだけでも、自殺はダメだ。
特に、1点目の部分だけで言うならば、自殺を選ぶのは馬鹿だと言える。ただ、余裕を持って考えられる時に限っての話。
また、考えることを抜きにすれば、自殺は寂しくなってしまうからやめて、と言いたい。
■自己防衛以外で人を殺すのは、ダメ
「例えば、家族を殺されたとしたら、俺は殺したやつを殺す」みたいなことを言った知り合いがいるが、ぼくはそれはダメだと考えている。
人間が命をどうこうする権限はない。だからダメだ。
ただ、そう言うと「牛や豚なんかは、必要があるから殺してもokなんだろ?俺もそいつを殺さない限り生きていけないんだ!だから、殺す必要がある。殺してもokだろ!?」などと言うが、ダメだ。ヤバイだろ頭。
「生命の維持の為に必要」ということと、「理想的自己の実現に必要」ということを混在している。自己実現の為に人殺しを許可すると、世の中が立ち回らなくなる。
また、そんな自己実現は不安定すぎるので、やめておいた方が良い。
それでいうと、国による殺人「死刑」の話があるが、日本はそういう社会システムの上で行なっているんだ。というくらいで、特段、死刑制度について考える事はない。言えるとすれば、執行猶予なしの無期懲役であれば、ぼくの世界から消えたも同然なので、わざわざ殺すまでもないと思うが。
どうしても、殺したくなったら、その社会システムを利用して、死刑をお願いしますと申請するくらいが、人間としての妥当かと考えている。
自分で人を殺すのは、やめておいた方が良いとぼくは思う。
■いろいろ書いたが
死について考えるときは、以外と精神が安定している気がする。
それは、ぼくの特徴なのか、みんなもそうなるのかはわからないが、最近読んだ『死ぬこと以外かすり傷』という本のタイトルにある様に、死を捉えておくと、それ以外が相対的に軽く思えて、かすり傷の様に感じてしまう気がする。
また、この文章を書いている際に「死について考えている」という話を知人にすると、とても心配されたが、別にぼくは死にたいわけではない。
むしろ、あと70年生きるための準備はしているし、死について考えたおかげで、メンタルは安定している。
死を想えではないが、とても良い機会になったと考えている。
「死」について考えることは、ベース音の様に、落ち着き響く。
結果何がわかったかというと、それくらいかな。
『超一流の雑談力』安田正_0010
■自己開示の仕方→「やばい人」と思われるような自己開示は避けたほうがよい。
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