書きだめ。書き溜まり。

読書と筋トレをしながら考えてみた

離婚しました。

2018年12月20日
ぼくは、離婚届を提出した。


結婚していた期間は7年と4ヶ月。
それが長いのか、短いのかはわからない。


新卒の時期から2人で東京に出てきて、社会がどんなものかも想像のつかないまま右往左往し、互いに多くの経験をしてきた。
もちろん、楽しい時期もあったし、僕自身としては大いに助けられた7年だったと思う。


それでも、離婚をした。


はじめからぼくらはどこまでも「合わなかった」のだけれど、それでも良かった。
どこかで互いに「合わせる」ようにしてやってこれていたので。
ただもう、ぼくが「合わせられる」のも「合わせる」のも嫌になって、彼女との間では何もできなくなってしまった。


うまくは表現できているかわからないが、そういうことでぼくらは離婚をした。

 


■「合わせる」は終わり
ぼくは「人として」おかしな部分があるというのは、この年になってやっと自覚するようになった。
困ったことに、親しい友人からも「頭がおかしい」といわれるのだから、そうなんだろう。


そんなおかしな人間に、彼女は何年も合わせてくれていたのだから、本当にありがたいことだと思う。


ただ、時には彼女の理解を超えてしまうことがあって、
「あなたは精神病なので、病院に行ってください。」「あなたはアスペルガーです。」
などと言ってもらうことがこれまで何度かあった。


そんな彼女に合わせて、実際に精神病院まで行ったことがある。
もちろん、心配から言ってもらっていることもあると思うが、その頭がおかしいぼくでも医者でもない身内から「あなたは病気です」と唐突に突きつけられて傷つかないわけではない。
それに、その時彼女がぼくを精神病患者にしたがったのは、ぼくにこれ以上「合わせることができない」というSOSだったのだろうと今になって思う。


そんなことが、積み重なってぼくは、彼女に合わせなければならない状況や、ぼくに彼女が合わせようとすることを避けた。
結果、関わること自体避けるようになった。


家に帰ろうと、互いに一言も喋らない。
おかけで、ぼくの誕生日も祝われることもないし、彼女が何をしているのかも知らない。


このまま行って、どこかで再び交わるイメージが持てなかった。

 


■「家族」は終わり
そもそも結婚しようと考えたのは、家族が欲しかったからだ。
当時のぼくの持病の「猛烈な寂しがり」が原因で『彼女』より安心な『家族』を欲しがった。


ただ、この年齢になってやっと、寂しいという気持ちを自分の中で折り合いをつけられるようになってきた。
また、家族というものに対しての幻想も抱かなくなった。


結婚当初から彼女は「家族と言っても、他人」と事あるごとに言っていた。
それはその通りなのだけれど、本当の他人であれば家族ではない。
だから、家族はなにかを共有しているはずだった。


合わない2人にとって「共有している部分」というのが「合わせた部分」だった。
そして、それがなくなるということは、ぼくの中では家族をやめるということだった。


家族をやめたなら、あとは『他人』をやるだけだ。

 


■これから
彼女はどう思っているかはわからないが、ぼくとしてはそれまでの結婚生活を通して学ぶことが多かったので、とても感謝している。


自分がどういう人間なのか。
人付き合いとはどういうものなのか。
家族というものはどういうものなのか。


沢山学んだ。


ぼくは、強い人間ではない。
ぼくは、人付き合いが上手ではない。
ぼくはにとって『家族』は、単なる記号。


今はもっと単純に、好きな人と、好きなときに一緒にいられたらなと思う。
とにかく、もう少し自由にやっていこう。