書きだめ。書き溜まり。

読書と筋トレをしながら考えてみた

歩きタバコをする人を『可哀想』で片付けること。アドラー心理学の課題の分離について。

自分が怒っている・ムカついているほとんどのことは「相手を可哀想と考える」で片付けられることに気がついた。大発見である。
 
その大発見の成果とそこに行き着くまでの思考の過程、それとアドラー心理学の『課題の分離』についてぼくが誤解していたことを書いていく。
 
怒りの処し方について、一つの参考になれば。
 

■怒りを可哀想で片付ける方法

ぼくはいつも何かに怒っているのかもしれない。例えば、自分の目の前で歩きタバコを始めるおっさんに怒っている。
 

□ビフォア:ぼくの今までの解釈

社会的に「体に害があるもの」と明示されている「タバコを吸う」という、いわゆる「緩やかな自殺」を行うのは個人の自由によるものだが、それを他人を巻き込みながらやってしまう歩きタバコ」はとんでもない迷惑行為である。
 
人間失格の葉蔵さんと恋人との入水自殺みたいなものは、その良し悪しにかかわらずある意味意義があるというか、それこそ物語になるようなことではあるが、全く知らん”きたないおっさん”と自殺させられていると解釈したときのぼくの気持ちは、途方のしれない虚しさと怒りしかない。
 
とはいえ、歩きタバコをしているおっさんなんて注意をしたら何をしだすかわからないし、そもそも関わり合いたくないと言う点もあり泣き寝入りしていた。いつも怒りだけは無くならず。
 

□アフター:「可哀想」で片付ける

歩きタバコ」は、立ち止まってタバコを吸うことが出来ない人がやることだ。
タバコを吸える年齢になっているにもかかわらず、たった5分の余裕を生むための時間のやりくりの仕方を学ぶ機会がなかった人か。もしくは、移動の時間にしかタバコを吸う時間がないような超過酷な生活環境に置かれている人か。
そんな可哀想な状態にもかかわらず、さらにタバコ依存症なのである。タバコの機能(リラックス効果みたいな錯覚)を発揮させたいのであれば、5分止まってリラックスしながら喫煙をして、その後急いで移動したほうが良いなどという判断もできなくなっているのだから、他の人生における判断についても大丈夫なのか怪しい。また、そもそも、そんなとんでもない生活環境にあるにもかかわらず、金銭面、健康面でもこれからさらに重圧がかかっていくのだ。可哀想で仕方がないので、さらに怒りつけるのはやめておこう!!
 
このように、「相手が可哀想である」として片付けようとした場合、その理由は考える端から山ほど出てくる。「歩きタバコ」くらいであれば楽勝で、「可哀想すぎるから怒るのはやめておこう。」まで行き着くだろう。笑
 

□タバコの他にも活用できる「可哀想』。

例えば、他にどんな怒りに対して僕が当てはめてみたか、書いておこう。
 
・騒音を鳴らしながら走るクルマやバイク
→お金がなくて、静かに走るバイクが買えない人。もしくは、修理をする金がない人。可哀想!!
 
・満員電車で顔の前に新聞をバサバサしてくるおっさん
→どうしでも電車の中で新聞を読まなければならない病気。もしくは、出社ギリギリに読まないとすぐ忘れてしまい新聞の内容以外に話題がないので困ってしまう人。可哀想!!
 
・馬鹿で威張っている先輩社員
→馬鹿なので威張っていなければ存在感がない人。もしくは、馬鹿だということがバレるのを恐れて威張っている人。可哀想!!
 

■怒らない練習など、似合わない

それまで全力で怒っていたことがあって、ただし、それに対してどうのしようもないというか、目に見えている解決方法(諦める・懲らしめるなど)では満足行かないところまで行って、怒りがモヤモヤと漂っていた。
頑張って仮に「諦める」とした場合は何が起こるかというと、それから慢性的に自分が我慢しつづけなければならないのがストレスで。お坊さんが『怒らない 禅の作法』という本を書いていたが、それではどうも根本的な解決ではなく、ふつふつと怒りがぶり返してしまう。
 
だから、どうしても根本的な解決が必要だということで考えていた。
 
そこでまず気がついたのは、それまで考えていた手段は「自分には似合わない」ということだった。どうも自分が被害者というか、自分のことを可愛そうだと思い続けるようなことが難しくて、どうしてもやっつけるというか、頭を使って根本的な処理で他にも流用できる法則を見つけたかった。
 
何日かぼーっと考えてぽっと思いついたのが「可哀想だな」ということだった。
「可哀想」で処理すれば、自分が惨めにはならないし、相手に危害を加える必要もない。
そして、情けをかけたい相手であれば、おせっかいとして手助けできることもあるかもしれないし、そうでなければ、おせっかいなのだから関わらないという判断もできる。
 
本当に良い大発見だった。
 

■『嫌われる勇気』アドラー心理学の『課題の分離』

「可哀想で考えればいいんだ」となったあとで気づいたことだが、ぼくは『課題の分離』の理解を間違えていたなと。
 
『嫌われる勇気』で読んだアドラー心理学には、『課題の分離』という考え方があって「これは相手の問題」で「ここからは自分の問題」だと、課題を対応する人間で分ける考えがあるのだけど、これが難しくて中途半端にほっといていた。ただ、今回改めて『課題の分離』が大切だなと思った。
 
歩きタバコでは、歩きタバコをやめて欲しい」という自分の願望があった。課題の分離が出来ていなかった。
そしてその願望を叶えられない自分の至らなさを怒りで処理しようとして、その怒りすらも相手に伝えられない自分の至らなさにさらに怒りを感じるという無限ループだった。
 
この問題に向かう初期の段階で一度「課題の分離をしなければ」と考えていた事があったのだが、できなかった。
 
それがなぜ出来なかったのかというと、『課題の分離』を「課題の解決のために相手を登場人物に入れてはいけない」と勝手に考えていたところがあって、例えば「歩きタバコをするような人が通る場所を歩いている自分が悪いから歩かないようにしよう。」としたり、「相手のことを考えてはいけない」として、全部自分の中身で怒りを処理しようとしていたので、とてもしんどくなってしまったから。
 
でも、肩の力を抜いて考えてみると簡単で「ああ、可哀想でいいや。」とおもって。
別に『課題の分離』でも、問題の解決に相手を利用してはいけないと言っていない。また、相手のことを考えてはいけないとも言っていない。課題の分離は「相手に行動を求めずに解決しましょう」ということだなということで、腑に落ちた。
 
 
 
何れにせよ、ぼくはまだまだ人間として未熟ということか。
改めて、『嫌われる勇気』読み直そうかしら。
 
■本