書きだめ。書き溜まり。

読書と筋トレをしながら考えてみた

死についての解釈。自殺するやつは馬鹿なんて言うのは、馬鹿。

何か書こうと考えた時に、まずは死についての考えを書いておこうと思った。
その結果僕というものがわかってくるのではないか、という願望も込めて、僕が今まで読んできた本などからの考えをもって、死について書いていく。


■死は自分のものではない
これは、吉本隆明さんの本に出てきたたとえだったと思うが…(間違っていたらごめんなさい)。
たとえば今、僕が脳死やなんかで自分の意思を示せない状態になったとして、それに対して自分の家族やらが「もう、死んだってことでいいですよ」と延命処置をやめたとしたら、その時点で、僕は死ぬ。
自分の意思に関係なく、周りの人の意思で僕は死ぬ。つまり、僕の死は、僕自身の問題ではなくなる時があるということだ。


また、たとえば僕が単純に死んでしまったとして、その死を考える脳や肉体がないのだから、その死を認識することができない。その点についても僕の死は、僕自身の問題ではないと言えるのではなかろうか。


>>『悪人正機吉本隆明


とはいえ、果たして、自分の死に対して、そこまで割り切れるものか。死を感じた際の、恐怖らしきものや先取りした未練はどうしたものかと、ぼくは悩ましくおもう。


たとえば、その恐怖から逃れる手段のひとつに、宗教があったりするんだろうか。
無宗教の日本人は?という点は、そもそも、「私が」というものが希薄だから、死に対する恐怖が薄いのではないだろうか。


>>『反哲学入門』木田元


もろもろ思うことがある。
僕は「死」をどう考えるか。


■「自分の死」は、ゲームオーバーより強烈
テレビゲームにあるゲームオーバーは、一種の死ではあるが、現実の「死」はもっとシビアで、理不尽だ。
人生では、ゲームオーバーによりゲームが終わるのではなく、もっとどうしようもない、いきなりゲーム機本体の電源を抜かれた様な、強烈な、終わりがあるだけじゃないだろうか。


仮にゲームとして例えるならば、この人生は、
・リトライ不可。
・前触れなしに終わる。
・ゲームオーバー後の情報なし。
という様な塩梅で、そんな鬼畜ゲーム誰が買うんだ?と思うような仕様になっている。
でも現状、人生がこういった仕様であることは間違いなく、僕らはそんな鬼畜設定のもと生きている。


それをどれだけの人が認識して生きているのだろうか。


>>『人生ドラクエ化マニュアル』JUNZO


ただ、そんな絶望的な設定のおかげで、「いまを生きる」という事の価値が際立つ。
泣いて喚こうが、どこからともなく絶望的な終わりが来るのであれば、将来を不安に思うことも、死に怯えたりすることも無駄である。


より、生きることに全てを使って良いとぼくは考える。


■あるのは、自分以外の死
自分の死というものは、死以上に強烈で、その強烈さゆえ、考える必要すら無いが、それでもちゃんと「死」は身近に合ったりする。
自分の周りの人やペット、好きな俳優やアーティストの死。会ったこともない歴史上の人物の「死」。つまり、自分以外の「死」である。


つまるところの「死」についての問題は、この点にあるんじゃないだろうか。自分以外の「死」に、いかに反応するかが、問題ということ。


例えば、大切な人の死と、全くの他人の死は感じるものが全く違い、自分のその後の人生に与える影響も違う。
その違いがなぜ、出てくるのかというと、ぼくは「相手が大切であればあるほど、その相手用の自分が個別に出来上がる」からだと考えている。逆に、全くの他人の死に心が動くことが無いのは「他人用の自分」という、変動の無い自分が相対しているからだと考えている。


つまり、大切な人が死ぬと「大切な人に向けた部分の自分を失う」から、悲しいのではないか。もしくは、「大切な人に向けた部分の自分が風化していく」のがわかってしまうから、寂しいのではないか。ということ。


他人の死は、それによって自分の何を失ったのかを考える時間が、自分を救ったり、死を弔うことだとぼくは考えている。


>>『私とは何か 「個人」から「分人」へ』平野啓一郎


ただ、大切な人の死は、自分の死についで強烈だ。その強烈さは、この言葉に集約されているように思う。


「兄弟とは不思議なものだな。親子ほど密でなく、男と女ほど絡み合いもしないが、弟がもしも腕を切られたとしたら、俺の腕をもがれたように痛む。(吉岡清十郎)」


ぼくはこの感覚が凄くわかる。
「もがれたように痛む」とは、自分の一部として、相手があるからではないだろうか。
そして、これが「死」となると、相手を大切に思っている自分が「死」を感じる。


ぼくはじいちゃんが死んだとき、突然目の前が真っ暗になるような、感覚に陥った事が事がある。それこそが、ぼくが感じる事ができた「死」であって、擬似的な死、「ゲームオーバー」だった。


>>『バガボンド井上雄彦


人は、死を待てない。
他人の死は、僕のために待ったりしない。だから、相手が大切であればあるほど、いつゲームオーバーが来ても良い様に、相手に対して自分がやっておきたい事する必要があると僕は考えている。
それが、エゴかどうかは、別の話で。


■死を想え
いろいろと言ったが、自分自身に関係があるか?それを認識できるか?にかかわらず、この人生にもいつか終わりが来ることは、ほとんど間違えが無いことだろうともう。
それを、理解した上で日常を送るのか、そうでないのかによって、人生の深みというようなものが変わるのでないかと思う。


>>『メメント・モリ藤原新也


そうやって、人生に重みが出てくると、反対にこの人生の理不尽なゲーム設定に対しての反感は増していく。
とはいえ、一度しか無い(だろう)人生を打開する手段は殆ど無く、僕が思いつく手段としては「本を読む」ことくらいだ。


「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います。」


この言葉自体も、小説の中の人物の発言ではあるが、これ以上に自分が本を読む理由を的確に表現している言葉は見当たらない。


>>『空飛ぶ馬』北村薫


死を想い、その理不尽さに対して抗議に赴かないのであれば、まだ生きているとは言いがたいのではないかとすら思う。
ただ、それは僕が本を好きなので、それをきっかけに本を読むようになって欲しいという願望も入っているが。


■自殺は馬鹿だとは言い切らない
ここまで自分の「死」について考えていくと、「自殺」というものについても考えることが出てくる。


ただ、自殺について”考える”前に、人が自殺してしまうような状況というのは、考える余裕が無いほど混乱してる、もしくは、一つの方向に考えが集中してしまっている状況であることが多く、単純に「自殺する人は馬鹿だ」などと言い切れる様な事ではないという事は、言っておきたい。


その上で、自分がそういった状況に陥らないように、自分の状況を客観的に判断できるようにしておいたほうが良いと僕は考える。


そのためのセルフチェックの基準というのが、
1.疎外感を感じていないか?
2.他人に負担をかけてしまっていることを気に病んでいないか?
3.リストカットやアルコール依存などの、自傷経験が進行していないか?
というもの。


誰もが、一度は「死にたい」と考えるとがあるだろうが、多くの人が自殺していないのは実行に移すまでのハードルが高かったからであって、上記の内容がそろうと、自殺のハードルが下がり、正常な判断ができずに、自殺に踏み込んでしまうこともありえる。


>>『健康の結論』堀江貴文


ただ、端的に自殺についての僕の考えを述べると、自殺は手段としては最悪。ダメだ。


死んだ後どうなるか?を誰も知らないのだから、自殺をして本当に状況が改善されるとは限らない。なのに、今持っている肉体を含めた全ての資産を投下してしまうのはリスキーすぎるという点。
人類が未だ、生命と呼べるものを作った事がないということから、命に関わる決定権を人間は持っていないと考えている点。


その2点においてだけでも、自殺はダメだ。
特に、1点目の部分だけで言うならば、自殺を選ぶのは馬鹿だと言える。ただ、余裕を持って考えられる時に限っての話。


また、考えることを抜きにすれば、自殺は寂しくなってしまうからやめて、と言いたい。


■自己防衛以外で人を殺すのは、ダメ
「例えば、家族を殺されたとしたら、俺は殺したやつを殺す」みたいなことを言った知り合いがいるが、ぼくはそれはダメだと考えている。


人間が命をどうこうする権限はない。だからダメだ。
ただ、そう言うと「牛や豚なんかは、必要があるから殺してもokなんだろ?俺もそいつを殺さない限り生きていけないんだ!だから、殺す必要がある。殺してもokだろ!?」などと言うが、ダメだ。ヤバイだろ頭。


「生命の維持の為に必要」ということと、「理想的自己の実現に必要」ということを混在している。自己実現の為に人殺しを許可すると、世の中が立ち回らなくなる。
また、そんな自己実現は不安定すぎるので、やめておいた方が良い。


>>『罪と罰ドストエフスキー


それでいうと、国による殺人「死刑」の話があるが、日本はそういう社会システムの上で行なっているんだ。というくらいで、特段、死刑制度について考える事はない。言えるとすれば、執行猶予なしの無期懲役であれば、ぼくの世界から消えたも同然なので、わざわざ殺すまでもないと思うが。


どうしても、殺したくなったら、その社会システムを利用して、死刑をお願いしますと申請するくらいが、人間としての妥当かと考えている。
自分で人を殺すのは、やめておいた方が良いとぼくは思う。


■いろいろ書いたが
死について考えるときは、以外と精神が安定している気がする。
それは、ぼくの特徴なのか、みんなもそうなるのかはわからないが、最近読んだ『死ぬこと以外かすり傷』という本のタイトルにある様に、死を捉えておくと、それ以外が相対的に軽く思えて、かすり傷の様に感じてしまう気がする。


また、この文章を書いている際に「死について考えている」という話を知人にすると、とても心配されたが、別にぼくは死にたいわけではない。
むしろ、あと70年生きるための準備はしているし、死について考えたおかげで、メンタルは安定している。


死を想えではないが、とても良い機会になったと考えている。


「死」について考えることは、ベース音の様に、落ち着き響く。

 

結果何がわかったかというと、それくらいかな。